第1部 保険文化の森

詩人 津村信夫の肖像

 四季派の詩人津村信夫の名をご存知であろうか。松本清張や太宰治と同様、今年(2009年)が丁度生誕100年にあたる。津村信夫は、近代文学関係の事典には必ず登場する人物であるが、一般的にはあまり知られていないかも知れない。この津村信夫、あとで詳しく述べるが、戦前の一時期東京海上の社員として勤務していたことがある。

 1983年(昭和58年)、東京・世田谷の小さな出版社である麥書房(むぎしょぼう)から『頬笑みよ返れ 追憶の津村信夫』という本が出版された。この本は、戦時中の1944年に病没した詩人津村信夫の追悼文集である。しかし、津村信夫の死後間もなく出版が計画されたものの、印刷所が空襲による強制移転となったため未発行に終わった。幸いにもゲラ刷りが残されたため、40年近い歳月の後に陽の目を見たのである。この仕事に取り組んだのが、麥書房の代表者である堀内達夫。1974年(昭和49)に角川書店から刊行された『津村信夫全集』(全三巻)の編集委員の一人であった。さて、その『頬笑みよ返れ 追憶の津村信夫』という本であるが、限定800部という少部数の出版。そのため、古書価は高値を呼んでいる。アマゾンでの古書価は10,000円という価格が付いている。ちなみに、発行されたときの定価は2,300円だった。この古書価は、津村信夫の詩人としての人気のバロメーターと見ても良いだろう。私は、『頬笑みよ返れ 追憶の津村信夫』が出版された当時、発行元の麥書房の近くに住んでいたので、版元を訪ねて直接購入した。多少安く手に入れたと記憶している。先日、世田谷区立梅ヶ丘図書館に近い麥書房のあった場所(代田4丁目37−12)に行ってみた。建物は当時のものと思われたが、堀内達夫自身も物故者であり、住む人は変わっていたようだ。津村信夫が亡くなってから60年、その追悼文集『頬笑みよ返れ 追憶の津村信夫』が出版されてからでも四半世紀の歳月が経過している。

 『頬笑みよ返れ 追憶の津村信夫』の冒頭には、室生犀星の「序にかへて 小説の作法」があり、以下室生犀星の弔辞、詩人丸山薫の弔詩「君去ったあと」、円覚寺管長朝比奈宗源師の香語が続く。詩人津村信夫の死に対して、多数の詩人・文学者が追悼の文章を寄せている。中里恒子、与田準一、竹中郁、中河与一、田中冬二、深沢紅子、神保光太郎、堀辰雄、太宰治、保田与重郎、三好達治…。津村信夫の父である津村秀松の神戸高商(現神戸大学)教授時代の同僚内池廉吉や桑原武夫(妻の父が神戸高商で津村秀松の講義を受けたという縁もある)も追悼文を寄せている。この時期、津村信夫の父は亡くなっていたが、母(津村久子)は存命で、息子のために追悼文を寄せている。辛いことであったであろう。また、津村信夫の兄である津村秀夫(朝日新聞勤務、後に映画評論家。評論の文末に「Q」と表示することで知られていた)は、追悼文と
追悼文集
『頬笑みよ返れ 追憶の津村信夫』
ともに津村信夫に関する詳細な年譜を作成している。津村信夫の妻津村昌子(1936年に結婚)の追悼文の中には、「会社と文筆との両立」に悩む津村信夫の心境を表す父宛の手紙(1938年春)の一部が紹介されている。この年の春、津村信夫は、勤務していた東京海上を辞めた。東京海上時代の同僚で、津村信夫の莫逆(ばくぎゃく)の友といわれたのが阪本幸一。以下は、その阪本幸一が『頬笑みよ返れ 追憶の津村信夫』に寄稿した「津村さんと私」からの引用である。

津村さんと私の交友は学窓を出られて丸ノ内の東京海上に入社された十餘年前に始まり、初対面のそのときから心の友として堅く結ばれて参りました。生ひ立ちも環境もまるで異なった二人が生涯の友として相寄ったことを思ひますとき、真の友情とは世間で謂ふ生活環境等を絶対に超越したものである事を沁々と感ぜずにはゐられません。
(中略)
詩人としての丸の内の生活は一面道草のやうに感じられますがこの哀しい三年有半の丸の内時代こそ津村さんにとって人間試練の機会であり津村さんの詩魂に肉づけをした大いなる時代であったのだと私は信じて居ります。
(中略)
昼休みがくるとどちらからともなく誘って会社の外に出て、雑沓する東京駅の三等待合室のベンチに腰を下し田舎めく旅人の姿に何か魂の虚妄を郷愁し、京橋裏のミルクホールに紛れ入つては藤村や牧水を語り、プーシュキン、ゴーゴリを論じ又ドウデーの『風車小屋だより』等を物語り時の果てるのを忘れる程でした。

 この阪本幸一は、インシュアランス誌(1981年1月1日)に「遠い空」というタイトルで旧友津村信夫に関する小文を寄稿している。そこで阪本幸一は、津村信夫の作品に関して、実に貴重な証言をしている。ここに、その一部を紹介しておこう。

 津村信夫に「牛のこと」という作品がある。以下に引用するのは、この詩の前半の部分である。

大きな建物のなかで
靴で踏まれたり
鼻拭きにされた紙きれは
いつのまにか
うづたかく積まれて
その車を曵いてかへるのが
その従順な動物の役目だと
私はあとになって聞かされた
丁度 中庭と同じだけの
大きさの青空が
そこから うかがはれたが
その空に
いくつかの星屑がはめこまれて
夕暮 牛は静かに帰へつて行った
あるときは
私達よりもおくれて
獣が臥してゐた敷石が
いつのまにか
冷えて行くままに

 この詩で「大きな建物」とされているのは丸の内にあった東京海上ビル。「従順な動物」というのは、そのビルの中庭に繋がれたていた“牛”のことを指す。このことを指摘したのが阪本幸一である。現在では、想像しがたいことであるが、当時の丸の内には、ゴミを運搬するための車を牽引する牛の姿が見られたようだ。まさに、“同時代の証言”であるといえよう。この詩は津村信夫が東京海上に入社した年の12月に発行された「四季」に掲載されている。阪本幸一は、「会社員生活の味気なさを初めてみにしみて感じ出した頃の、彼自身の心象風景を「牛」…に託して、サラリーマンの心奥を語ったものとして、希少な一編と思う」と記述している。

 ここで話題を転じ、詩人津村信夫の別の作品を紹介してみよう。永らくの間、朝日新聞第1面に詩人大岡信が担当したコラム「折々のうた」が掲載さていた。津村信夫の作品が、この「折々のうた」でとりあげられたことがある。1983年(昭和58年)6月2日付に「小扇」という極めて短い詩が紹介され、大岡信によりコメントが付されている。そのコメントの最後の部分は「信州の夏の叙情小景。淡彩の美が取り柄である」と結ばれていた。 

指呼すれば、国境はひとすじの白い流れ、
高原を走る夏期電車の窓で、
貴女(あなた)は小さな扇をひらいた。

 「小扇」は、『愛する神のうた』(1935年、四季社)の冒頭に所収。この詩集は津村信夫の処女出版である。装幀を一水会会員の深沢紅子が受け持った。社会人としてスタートを切ったのはこの年の4月。同じ年の11月30日が『愛する神のうた』の発行日となっている。この詩に出て来る“貴女”という女性の名は特定できている。ミルキイウェイとも呼ばれた少女は、津村信夫の父津村秀松の職場(官立神戸高商)の同僚である内池廉吉の娘である。内池は、東京・神戸の高等商業学校の教授を兼務していたが、後に兼務が外れ東京商科大学(現一橋大学)の専任教授となる。内池廉吉は、先に述べたように『頬笑みよ返れ 追憶の津村信夫』への寄稿者の一人である。
 本題とは外れるが、この内池廉吉の神戸高商時代の言葉が、出光興産の創業者である出光佐三(1885〜1981年、1909年神戸高商卒)に多大の影響を与えている。後年、このことについて出光佐三は、次のような記録を残している(『人間尊重五十年』1962年、春秋社、「内池廉吉博士と語る」)。

「私どもが神戸高商を卒業せんとするときに、先生はまず一同に対し、今後商人はなくなると前提して、これから前垂掛け商人にならんとする私を驚かされ、次いで、ただし経済界は複雑になり、生産者はますます増加するから、多数の生産者と限りなき消費者とを結びつける唯一の配給者としての商人は残る、そしてこの商人は永久に必要である、と付け加えられて、私はほっとしました。先生、こう言われたことをご記憶でございますか。」
先生は答えられた。
「そう言ったね。その理念については当時からそのとおりで今も変わりはないよ。」
「先生はさらに、多くの消費者に接して消費の大勢を知り、これを生産者に知らせ、生産の方針を指導し、生産の状況を知って消費の方向を教えるという、配給者としての使命とも言うべきもののあることも、お教えになりました。」

 出光佐三は、独自の経営理念をもつ経営者として広く知られており、自己の経営について社内外で語ることが多く、おびただしい数の講演録等が残されている。その中に、上記の内池廉吉の言葉を受けた“経営理念の根本”に関する考え方が、繰り返し出てきている。戦後の1949年(昭和24年)になって、出光佐三は、弟である出光計助(2代目の社長)とともに内池廉吉を訪ねた。上記の対話は、そのときの記録である。

 ここで津村信夫の生涯を簡単に辿ってみよう。津村信夫は、1909年(明治42年)1月5日、法学博士津村秀松・久子夫妻の次男として神戸市葺合区熊内橋通に生まれた。父は1866年(明治9年)、和歌山県日高郡御坊町(現御坊市)の造酒屋和佐屋佐吉の次男として生れ、信夫誕生当時、神戸高商(現神戸大学)の教授であった。母久子の父は小山健三。小山は東京高商校長、貴族院議員、三十四銀行(後の三和銀行)頭取等を勤めた。津村信夫は、このような富裕で教養豊かな家庭環境に育つ。姉、兄がいる三人兄弟だった。

 1915年(大正4年)4月、津村信夫は雲中尋常高等小学校入学する。一度受験に失敗、小学校卒業の翌年2回目の受験で1922年(大正11年)4月、兵庫県立神戸第一中学校(神戸一中、現神戸高校)に入学する。二学年上に、兄秀夫が在籍していた。最近、ブームとなっている白洲次郎やその同期生である吉川幸次郎(中国文学)は、津村信夫が入学した年の3月に神戸一中を卒業している。また、神戸一中を卒業した同期にはソニーの創業者井深大や俳優の山村総がいた。
 1927年(昭和2年)4月、津村信夫は慶應義塾大学経済学部予科に入学した。予科では、後に住友海上の常務をつとめた上原一男と同じクラスとなる。上原一男は、『津村信夫全集』第二巻に「学生時代の津村君」を寄稿、当時の思い出を語っている。それによると、クラスの3分の2は慶応普通部からの進学者。津村信夫は、少数派だ。すこし肥り気味で色白、丸坊主が多い中で黒々とした髪をはやしていたことが上原の印象に残った。津村信夫の日記にも、上原一男との交流の記録が残されている。
 津村信夫は、小学校時代からテニス、相撲、ランニングを愛し、中学時代は陸上競技部の選手であったが、小学上級の頃にキリスト教教会に通った経験もある。中学卒業間近かの頃、家族に隠して詩や短歌を作りはじめた。津村信夫は、予科入学の年の7月頃、肋膜炎を病んで2年間休学する。この休学中、「アララギ」を購読、自分も短歌を詠むようになった。津村信夫が詩の世界とふれあうのは、兄秀夫の影響がある。大学予科時代の1929年(昭和4年)、東北帝大ドイツ文学科で学んでいた兄の勧めで詩誌「地上楽園」同人に参加した。その前年、生涯の師となる室生犀星を訪ね、以後交流を深める。丸山薫、堀辰雄、三好達治等諸先輩との出会いも学生時代のことであった。津村信夫は、詩の世界にのめり込み、経済学には全く興味がなくなったようである。

 既に述べたように、津村信夫は中学入試に1度失敗している。慶応・予科時代の2年の休学を含め通常の学齢より3年遅れて、1935年(昭和10年)3月に慶応義塾大学経済学部を卒業した。卒業論文は、小泉信三教授のもとイギリスの経済学者リカードをテーマにしたものだった。二度の受験の失敗(現信州大学の前身である旧制松本高校の受験で不合格)、病気による休学。これらは、津村信夫の内面深くに影を落としていたに違いない。津村信夫の作品のもつ優しさ、弱々しさは、その“育ち”とも深い関係があろう。しかし、受験の失敗、病気療養による煩悶や苦しみが、思いやりの深さや暖かさに繋がったのではなかろうか。また、学者の家庭という恵まれた環境からくる品格。これも津村信夫の作品の特徴といえよう。慶應義塾大学経済学部を卒業すると、津村信夫は、父の勧め(秀夫によると「命令」)で東京海上に入社した。父は高等商業学校(後の東京高商、現一橋大学)出身であり、神戸高商で経済学を講じた学者として、また実業家(父津村秀松は、後の日立造船の前身会社である大阪鉄工所社長をつとめている)としての強い人脈から、息子信夫の東京海上への入社が可能になったようだ。当時の東京海上専務である各務鎌吉は父と同じく高等商業学校の卒業生。また、1939年に東京海上社長となる鈴木祥枝(すずき・さかえ)は、神戸高商の第1期生である。同じく神戸高商第1期生で東京高商専攻部に学び、学界から東京海上に転じた堀内泰吉も津村秀松の教え子であった。津村信夫と時代を同じく東京海上で働いた人々の中の何人かは「コネ入社」というコトバ(当時、この用語は存在しない?)は、使用しなかったが、「××さんの線での入社であろう」と推測していた。もっとも、この時代の就職試験というものは、今よりずっと“密室的要素”に支配されていたのであろうが・・・。
 津村信夫は、海上営業部船舶営業課船舶契約係に配属される。海上営業部の部長は谷井一作、上司に和田正義(部長付)、菊池貞次郎(主任)がいた。津村信夫は、ここで表面的には真面目に仕事をしていたようだ。船舶保険のフリート表(船会社ごとの実績表)を作る。これが当初与えられた仕事だったようだ。大学で理論経済学を学んだ若者にとって、面白い仕事とはいえないだろう。しかし、将来船舶保険関係の仕事を身につけ深めていく社員にとっては、基礎的な業務であり、簡単に「つまらない仕事」とは言い切れない。そもそも、給料を貰って仕事をしているのだから、仕事が面白いか否かの次元の問題ではない。これは、古くて新しい問題である。兄秀夫によると、津村信夫は、明治生命に阿部章蔵を訪ね、「胸中の煩悶を訴えていたらしい」とも書いている(津村秀夫『遠くの島から来た手紙』1984年、勁草書房)。阿部章蔵とは、作家水上瀧太郎の本名。津村信夫にとっては慶応の先輩にあたり、また恩師小泉信三の芝三田台町小学校から慶応義塾大学に至るまでの同級生だったという関わりがある。

 本稿を書くにあたり『頬笑みよ返れ 追憶の津村信夫』を久しぶりに取り出してみて、太宰治が「郷愁」の表題で追悼文を書いていることを再発見した。津村信夫と太宰治。ミスマッチな組み合わせの感がする。収録されている太宰治の文章も、あまり印象に残る文章ではない。しかし、「津村信夫は、私と同じくらゐの年配でもあり、その他にも理由はあったが、とにかく私には非常な近親性を感じさせた。津村信夫と知合つてから、十年にもなるが、いつ逢っても笑ってゐた」というあたりは、親しみがこもったものであり、結びに「私は中原中也も立原道造も格別好きでなかつたが、津村だけは好きであつた」とあり、二人の親密の度合いを推し量ることができる。
 室生犀星の弟子で、入社した年に詩集を出した詩人。太宰治は友人。そんな人物が戦前の東京海上に一時期勤務していた。このことは、損害保険業界はもとより東京海上サイドでもあまり知られていなかったに違いない。このような動機から、津村信夫を“追っかけて”30年の歳月が経過した。その間、阪本幸一と出会い、津村信夫の思い出話を伺う機会も持てた。津村が僅か3年余を過ごした東京海上も統合により東京海上日動火災と社名を変えてしまっている。今年は津村信夫の生誕100年に当たる年だ。そこで、これまでの津村信夫情報を集大成してみたいと思いたったのだ。

■著者紹介
植村達男(うえむら・たつお)
1941年神奈川県鎌倉市生まれ。1964年神戸大学経済学部卒、住友海上(現三井住友海上)入社。自動車保険料率算定会(現損害保険料率算出機構)調査役(出向)、住友海上情報センター長等を経て現在、神戸大学東京オフィスコーディネータ。日本保険学会、日本ペンクラブ、日本エッセイストクラブ、日本エスペラント学会各会員。
著書に『本のある風景』『神戸の本棚』『情報氾濫時代を生きる』(以上勁草書房)、『時間創造の達人』(丸善)、『コーヒー、その知的香りのモザイク』(保険毎日新聞社)、『ある情報探索人の手記』(創英社/三省堂)、『火災保険よもやま話』(保険教育システム研究所)など。

  保険文化の森を散歩する
著者 植村達男
体裁 B6判・本文1色刷り・144ページ
初刊 2009年7月
価格 本体800円+税

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